翻訳と辞書
Words near each other
・ ルイ・ゴンザレス・デ・クラヴィホ
・ ルイ・サア
・ ルイ・サハ
・ ルイ・サー
・ ルイ・ザンペリーニ
・ ルイ・シホヨス
・ ルイ・シャルル
・ ルイ・シャルル・アントワーヌ・ドセックス
・ ルイ・シャルル・アントワーヌ・ドゼー
・ ルイ・シャルル・ドルレアン
ルイ・シャルル・ドルレアン (ヌムール公)
・ ルイ・シャルル・ド・ブルボン
・ ルイ・シャルル・ド・ブルボン (1701-1775)
・ ルイ・シャーヨ
・ ルイ・シュポア
・ ルイ・シュポーア
・ ルイ・シルバ
・ ルイ・シルヴァ
・ ルイ・シロン
・ ルイ・ジェラルダン


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

ルイ・シャルル・ドルレアン (ヌムール公) : ミニ英和和英辞書
ルイ・シャルル・ドルレアン (ヌムール公)[こう]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
: [こう]
  1. (n,suf) prince 2. lord 3. duke 4. public 5. daimyo 6. companion 7. subordinate

ルイ・シャルル・ドルレアン (ヌムール公) : ウィキペディア日本語版
ルイ・シャルル・ドルレアン (ヌムール公)[こう]

ルイ・シャルル・フィリップ・ラファエル・ドルレアン(全名:Louis Charles Philippe Raphaël d'Orléans, duc de Nemours, 1814年10月25日 - 1896年6月26日)は、フランスの王族。ヌムール公。フランス王ルイ・フィリップと王妃マリー・アメリーの次男。
== 生涯 ==
パリパレ・ロワイヤルで誕生する。12歳でシャッスール師団の大佐、1830年にサンテスプリ修道会のシュヴァリエとなった。1825年頃にルイ・シャルルの名はギリシャ国王の候補者として挙げられ、1831年2月にはベルギー国王の候補者となった(ルイ・シャルルはベルギー独立革命の際にフランス軍を率い、ネーデルラント連合王国からの分離独立を目指してベルギーへ入国していた)。アントウェルペン包囲戦でも活躍した。
1836年秋にはフランス領アルジェリア平定作戦の一環としてコンスタンティーヌへ上陸する。1837年1841年とアルジェリアへ派遣された。
1842年、長兄オルレアン公フェルディナンが急死すると、ヌムール公は自然と幼い甥、パリ伯フィリップ摂政役に就いたことから、立場の重要性が大いに増した。しかしヌムール公は国民の支持を得られず、不人気であった。1848年2月革命イギリスへ亡命した。
1871年にフランスへ帰国し、翌1872年3月に陸軍士官としての地位を回復した。退役後も、1881年まで赤十字社の総裁を務めた。パトリス・ド・マクマオン大統領時代には、時折エリゼ宮へ姿を現したという。1896年にヴェルサイユで死去した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ルイ・シャルル・ドルレアン (ヌムール公)」の詳細全文を読む




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.